毒親との和解

ココロの部屋
"Luca" made by Kazumi for her exhibition at Sakatsu Gallery Tokyo 2020

しばらくこのブログを書けなかった。

私にとって人生の転機のような出来事があったから。

心が整理できず、とてもまとまった文章が書けなかった。

でもようやく書く気になれたので綴っていこうと思う。

 

2週間前、母が病で倒れ、救急車で運ばれた。

普段と様子が違う。

朝からベッドで寝たまま、何の反応もない。

まさか、まさか。

「お母さん、お母さん!」

体を揺すると、少しだけうなずいた。

急いで救急車を呼び、すぐに母は病院に搬送された。

一緒にいた私はただ母の手を握って見守るしかなかった。

 

「脳出血」だった。

医師の話では、おそらく余命1か月。

あるいは重度の麻痺と意識障害が残り、寝たきり状態だと言う。家で介護できるレベルではないので、医療器具が揃った施設に入ってもらうしかない、と。

 

集中治療室で眠ったままの母。

とても小さく、弱々しく、一生懸命息をしている。

こんなひ弱な姿を初めて見た。

いつも堂々としていて、男顔負けのパワフルさで、キリッと厳しいまなざしで、嵐でも何でもかかってこい!受けて立つわよ!・・ってな強靭な母。

 

そんな母は子育ても厳しかった。私のやることなすことを否定し、夫婦仲が悪かったこともあり、父への恨みをぶつけられることが毎日の日課だった。父に顔つきが似ている私は、顔を見てるだけで腹立たしかったようだ。

「お父さんにそっくりなんだから!」

そう言われるたびに、私は父を好いてはいけない、甘えてもいけない、母と一緒に父を恨んでいなければならないと思うようになった。だから私は父とろくに話をせず、亡くなる前の三か月間だけ初めて親子らしい会話をした。父がどんな人生を送ってきたのか、青春時代の夢はどんなだったか。いろんな話を聞いて、母が恨んでいたようなひどい人間ではないことを知り、涙が出るほど嬉しかった。

 

母のせいで父との交流を絶たれてしまった。私はそんな思いで、ますます母に反発するようになった。以前から母には反抗的だったが、度を増していった。母も母で私をどんどん否定してくる。「あんたみたいなダメ人間」と何度言われたことだろう。他人にも「この子は本当に馬鹿な子でね」と言う。謙遜のつもりらしいが、ずっと否定されて来た身にはたまらない。何とかぎゃふんと言わせよう、認めさせようと、仕事やキャリアで成果を出したが、何をやっても無視される。そして、やればやるほど自分が母の言うような「ダメ人間」に思えて来て、どんどん自尊心を失っていった。

 

そして母以外との人間関係でも同じことを繰り返した。私をバカにしたり粗末にするような人に無意識に近づき、その都度深く傷つき、「やっぱり私はダメなんだ」と自信を失うという最悪のパターン。二年前にはひどい精神的ダメージをサイコパスのようなひどい人間から受け、必死の思いでそいつの前から逃げた。もしかしたらこのブログを見つけて読んでいるかもしれない。まさか自分のこととは思わないだろう。自分の異常さに気付かないサイコパスなのだから。

 

とにかく、そんな人間関係を引き寄せるのも母が「毒親」だったからだと思った。子どもを否定し、自信を失わせ、生きる力を奪い、自分の思うように支配する「毒親」。私はいつまでたっても「毒親」に支配され、檻の中に入れられたまま弱々しく生きていくしかないのか。私の年齢を考えて、もうこれが運命なのだと諦めて死んだように生きていくしかないのだろうか。

 

いや、でもそれは悔しい!絶対に毒親の支配から抜け出してやる!あんたなんかよりずっと強い人間になってみせる!私はあんたのように、人を支配しないと自分が保てないような弱い人間じゃない!

 

・・そう思っていた矢先だった。

 

体が思うように動かないと訴え出し、食欲が衰え、何をやるのもしんどそうな母。「大丈夫?」と優しい言葉をかけてやれば良かったのだが、長年の反抗心と恨みが重なり、とてもそんな言葉のかけらすら出て来ない。お粥を作り、黙ってテーブルに出し、さっと自室に引きこもる。それが精一杯だった。母から見たら何て冷たく、ひどい娘に見えただろう。でも私の心はせめぎあっていた。恨みと、母を案じる気持ちの両方に潰されそうになり、どう感情の処理をしていいかわからない。母を捨てるほどのドライさはなく、かと言っていたわるような優しさもない。日に日にそれは大きな苦しみとなり、胃がきりきりと痛くなるほどだった。

 

そんな時に、母が倒れた。

小さく、弱々しく、息も絶え絶えの状態で、目の前で昏睡している。

もう長くは生きられない。生きられたとしても、重度の後遺症で苦しむことになる。そんな説明を医師から聞かされ、私はとっさに言った。

「お願いですから、苦しませないでください。痛い目に遭わせないでやってください。苦しい治療だけは止めてやってください」

そういうと、涙がボロボロ出て止まらなかった。横たわっている母の手を取り、

「お母さん、お母さん」

とぎゅっと握りしめた。

 

毒親。

愛されなかった。

否定された。

私の人生に暗い影を落とされてしまった。

 

そんな母への恨みが、いっきに氷解した。

 

母は未熟だったのだ。そんな風にしか育てられなかったんだ。母もまた、そんな風に育ってきたんだ。そして愛されたことがなかったんだ。

 

そんな思いが湧きあがって来た頃、兄が一冊のノートを見せてくれた。母が書いていた遺言書だと言う。そこには私への手紙が書いてあった。

「あなたが産まれた時は本当に嬉しかった。でも貧しかったから働くのに精いっぱいで、愛情を注ぐ心のゆとりがなかったの。あなたは親に面倒をかけまいと、一人で遊んで我慢してくれてたね。本当にごめんなさい。不出来な親を許してね」

 

私は母に愛されていたんだ。

ただ、愛情表現を知らなかっただけなんだ。

誰にも教わって来なかったんだ。

母の親も、そのまた親も、みんなそんな風に育ち、また、子どもを育ててしまってたんだ。負の連鎖が代々受け継がれ、愛を知らないままに大人になっていったんだ。

 

そう思うと、母への恨みどころか、母が哀れでたまらず、病室に行き、母を抱きしめた。

「お母さん、ありがとう。私のこと愛してくれてたんだね。ありがとう。私もひどいこと言ってごめんね。悲しい思いしたでしょう。許してね」

泣きながら言う私に、意識がなかったはずの母が、小さな声でこう言った。

「こっちこそごめんね。ありがとう」

 

私は病室でむせび泣いた。今、こうしてキーボードを叩いていながらでも涙が止まらない。

母は毒親じゃなかったんだ。愛を知らないだけだったんだ。どうしたらわが子に愛情を伝えられるかわからなかった。自分も教わって来なかったんだ。

 

今、いろんなところで「毒親」に悩む人の話を聴いたり読んだりする。中には本当に残酷な「毒親」もいるだろう。

でも少しだけ耳を傾けてほしい。世の中には完璧な人間はいない。神様から見たら、どんなにエラそうな人だって、みんな未熟で欠陥だらけだ。親だってそう。未熟で欠陥だらけの若い人間が子を産み、何が子育ての正解なのかわからないままに育て、大人になったら世に放り出す。育て方が良かったのか、その子が死ぬまでわからない。まして、自分の生き方が良かったのかすらわからないのに。

 

私は毒親を許しましょう、とアピールしているのではない。でも、頭の片隅に置いといてほしい。あなたが恨んでる毒親も、同じ育ち方をし、愛を知らずに生きてきた哀れな人だったんだよ、ということを。そう思うことであなたの心にほんの1ミリだけ、毒親への恨みが離れていかないだろうか。あなたの心が楽になっていかないだろうか。人を恨むのはすごい負のエネルギーがいる。それはとても辛く、ちっとも幸せじゃない。だったら少しでも負のエネルギーを減らしてほしい。あなた自身のために、毒親への恨みから少しでも離れてほしいのだ。

 

私は母の人生の最後の最後で、母と和解し、スーッと恨みが消えていった。それは言いようのない平安で、代わりに温かいお湯のような愛情が心に溢れてきた感じがする。それは私に母の手を取らせ、じっと握りしめ、母の苦しみを取り除いてやってくださいと祈らせている。愛、というのは何て安らぎに満ちて優しいものなんだろう。この年になって、やっと私は愛を知った。そして母も天国に行く直前に愛を感じたのだろうか。今まで得ることができなかった、安らぎに満ちた愛を。

 

毒親に苦しむ人たちにも知ってほしい。あなたが親から得られなかった愛は、とても平安で優しいものだと言うことを。そしてあなたが恨んでる毒親は、これを知らずに生きてきた哀れな人なんだよと言うことを。

 

いつかあなたの毒親への恨みが消えて、おだやかで優しい愛で満たされますように。

 

 

 

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